人生だいたい大丈夫
熊坂義人ブログ
本当は聞こえている。
音についての話なワケなんだが、その序として
先日、妻の奇なる縁でもって宮城の酒蔵を見学した時の話から。
その酒蔵の杜氏さんであるところのご主人は私と変わらない年齢で、
この人をしてその酒についての情熱たるや、私の駄文でもってしては言い尽くせず失礼。

「食事にあう酒というのは大吟醸のような芳醇な酒ではなく
すっきりと口の中を洗い流すような酒だ。」

彼は「究極の食中酒」と銘打って、それを極めんがため日々酒と対峙している。
この蔵の酒というのが、素人でありながら私も感動を覚え、う〜む、などと知った風な顔で。

さて彼の話の中で忘れられない言葉がいくつかあるのだが一つ引用させてもらう。

「食事にあう酒というので、どこまで甘くするか、というのは重要な問題。うちはぎりぎりのラインで戦っているが、蔵によっては甘い酒を作って後からアルコールで割って薄めるようなところもある。味はほとんど大差ない。相当に精通した人にしか違いは答えられないだろう。けれども、そうやっているような酒蔵が5年後には無くなっていたりするものだ。」

細かいところは忘れてしまったけれども、要約すると以上のようなこと。
この話は胸にグッとくるものあり。

さて本題の音の話。

こんな仕事をしていると、稀にではあるが普段音楽をほとんど聞かない人にも
私の演奏を聞かせられる機会があったりわけで。
そんな時よく言われるのが「やっぱり生音はいいわねぇ。」
というやつで、私なんかにすると高校生の時分にギターを手にして以来
15年間も楽器の生音というやつをほぼ毎日聞いてきたから
「生音が良い」などという台詞を聞いたりすると改めて考えてみたくなった。

今主流になった(なってない?)MP3プレーヤーだけれども、あれがどうも不安だ。
だいたいMP3というファイル形式は
「音楽ファイルは重たいので削れるところ削って軽くしましょう。
そうすればインターネットでもスイスイ聞けるし、メールに添付して送れますよ。」
という意味合いのものではなかったか。
削れるところ削って軽いファイルになるっていうのが、私としては引っかかるところで
例えば私の弾いたコントラバスの録音に削れる部分があるのか知らん、などと。
どういう理屈で軽くなってるのか分からないけれども、ファイルが軽くなると言うのは
どうせコンピュータのことだから情報量が少ないと言う事に他ならない訳で
そうなると音そのものにかかわってくる問題であることに間違いはなかろう。
そんな音質が主になってしまっては、危ういのではないか。大丈夫か?おれたち。

映像が綺麗という映像作品をYouYubeで鑑賞しているようなもんじゃないか。

音の正体は何かと言えば、これは振動。
ー空気の振動が人間の耳に伝わって鼓膜がふるえて音として感知する。
というのが人間の音を認識するシステムなのだが
このシステムは私たちが思っているよりもずっと精巧にできているはずだ。
MP3では感動が薄いってこと多分みんなどっかで気付いてると思うんだけどなぁ。
しかし、いかんせんデジタルは安く済むから、そっちへ流れちゃうんかな。

薄めた酒、本物の酒。

説教くさいか、失敬。
カッティングエッジ
コクテイルというところで打ち合わせと言う名の下にちょっとした飲み会。
で、いろいろ話が盛り上がって
「なるほどそうか、僕はこんなことを考えていたっけなぁ。」
と口に出すことで、頭の中ひとつ整理。

カッティングエッジというのは、つまり最先端ということらしいが
最先端というからには、何かの先っぽということなのだ。
大事なのは何の最先端なのかってことだい。
流れとか、ルーツとか、そう言ったものを無視したところには
最先端って言葉は似つかわしくないのよ。感覚的に。
ただの点じゃないかね。
誰の言葉だったか「真の前衛主義は、上質な懐古主義でもある。」。
そうなんだよなぁ。

「点」的な存在も良ければ僕も大好きだけども、
そればっかりだと「大丈夫なのかしら」なんて、老婆心ながら。

文字の限界
トゥバ共和国にはホーメイという、モンゴルのホーミーに良く似た倍音歌唱法がある。
そのホーメイという歌唱法は、声帯にある種のストレスをかけて
いわゆる濁声を発生することによって、声に含まれる倍音成分を
増幅しやすくする、というものである。

ホーメイのテクニックを紹介しよう。

ホーメイ…
 トゥバの倍音歌唱法全体をさす言葉でもあるが、基本的な歌唱テクニックとしてもホーメイという言葉が当てはめられる。声帯にある種のストレスをかけ、口腔内を広く保ち舌を前後に移動させることで倍音の音程を変える。声帯から唇まで音を遮るものがないため、倍音とともに声帯による発声の実音も同時に聞こえやすい。

スグット…
 ホーメイの基本的発声法で舌の先を口蓋の上前歯裏付近につけることによって、声帯からの発声の実音をミュートする。そうすることによって倍音が聞き取りやすくなり、口笛を吹いているような高音が聞こえる。この場合、舌の上下運動(舌先は口蓋につけたまま)によって舌と口蓋の間にできる空間の体積を変化させることで倍音の音程は上下に変化する。

カルグラ…
 声帯の上部に位置する仮声帯を、声帯の振動の半分の早さで振わせることによって、声帯からの実音よりも1オクターブ低い音を同時に発声する方法。

ボルバンナディル…
 舌を高速で小刻みに前後させることによって倍音にビブラートをかけるテクニック。

カンズップ…
 1オクターブ低い音を出すカルグラをしながら、スグットをすることによって倍音も同時に聞こえやすくする。

以上がかるいテクニック紹介だが、さまざまに
組み合わせることによって多彩な表現ができる。
また、ここには記載しなかったが、鼻腔に響かせたり、咽頭蓋をしめたり、
口蓋垂を使ったりと、さまざまな倍音歌唱テクニックがあることも
この歌唱法の魅力である。


さあ倍音歌唱を楽しみましょう!
…と、まぁこれではとうてい倍音歌唱なんかできない。
このあたりが文字の限界なんではなかろうか、と。
「超」について、再度考察。
屁理屈だが、面白かろうと。

コトの発端は先日の、今野英明と東京ランデブーのリハーサル時。
今野さんが「沢山もらいすぎて飲みきれないから」とコーヒー豆をくれた。
何とはなしに「超嬉しい」などと発言したので
「嬉しいを超えた?」
「通り過ぎて、腹がたった?」
などという他愛もない会話。

「超」については以前にも日記で考察したことがあるが
その時に触れた内容の概略を書けば、こうだ。

「超」という言葉は「すごい」や「甚だしい」などといった
程度が著しいことを表す副詞などとは、根本的に異質なものである。
「超ド級」といえばドレッドノートを超越した大型戦艦、
「超法規的措置」といえば法的基準をこえた措置、
といった具合に「超○○」というのは「凄い○○」ということではない。
「超」はあくまで、「超」なのである。

わかりやすい例えをあげさせてもらう。
キン肉マン(1979〜1987、ゆでたまご)の
キン肉スグルをはじめとするその主要キャラクターは
「超人」という設定で、それは「人間を超越した」存在だ。
「人」とは異なものである。
「超人」に憧れる「人」、ジェロニモという登場人物もいた。
彼は「人」であり、「超人」ではなかったが、
最終的には「超人」になることができた。

この例えで解るように、「超○○」と「○○」の間には
超えなければならない大きな壁があって、
その向こう側とこっち側とではその性質がまったく違うものになる
ということである。

さて以前には以上のようなことを書いたのだが
ぼんやりとそんな事を考えていた矢先の中央線高尾行き。
僕の乗っていた車両に、中学生男子といった風情の2人組が入ってくる。
おもむろにこんな会話。

A「今日のテスト超簡単だったね!」
B「うん、前回のテストに比べて簡単すぎたよ。」

さあきた、ピン。僕の屁理屈捏ね神経が刺激される。

さてこの場合何が問題になってくるかというと、いわずもがな「超簡単」である。
「超簡単」という事象を前に、こんな命題がうまれる。
第一に「簡単」を超越した先には何があるのかということ。
これは上記の例文から推察することが出来る。
先程も触れたが「超法規的措置」「超人」のように、「超○○」というのはもはや「○○」ではない。
となると、「超簡単」は「簡単」ではない。
さらには「簡単ではない」という表現から感覚できるのは「難解」である。

超簡単というのは、簡単を超越してもはや難解なこと。となる。

さてそう言うことであるならば上記の中学生男子とおぼしき2人組の会話

A「今日のテスト超簡単だったね!」
B「うん、前回のテストに比べて簡単すぎたよ。」

は、論理的におかしい。話がかみ合っていないとさえ言える。

A「今日のテスト超簡単だったね!」
B「うん、前回のテストに比べて難しかったね。」

という形が論理的には望ましいのだが、その気分にズレが生じている気がする。
というのはA君が「超簡単」という表現でもって今日のテストを評しているのに対して
B君はただ「難しかった」と評する。
これではなにか、B君にとっては単純な「難しい」テストであったかの様で
A君に対して、あからさまに嫌みだ。
下のようであったらどうだろう。

A「今日のテスト超簡単だったね!」
B「そうかな、それほど難しくなかったんじゃない?」

こうなれば論理的にも感覚的にも落ち着く。
これまで考察をすすめてきたが、では
「超簡単」が表すような事象とは、具体的にどのようなものか。
これは、主体性が関わってくるので一概には言えないことであろう。
ただしその語感からして「簡単」を通り越した上での「難解」な事象であるというコト。
これは実生活には、それほど頻繁には起こらない部類のことであるという推察は
恐らく間違いではないだろう。

ということは現在の「超簡単」という言葉が乱発、乱用されている事態は
理解に苦しむことになってしまう。
これを解明することはひょっとしたら「超簡単」な、命題なのかもしれない。


なんつって、別にみんな「簡単=超簡単」として使ってるんでいいんだけどね。

屁理屈。暇つぶし。
日本人の音楽的逸話
僕の好きなはなし。

江戸時代末期。
ペリーが来航する。
西洋の文化はすばらしいということを示すために
いつでも船には弦楽四重奏をつれていたという。
どれどれ、ここらでまた、西洋がどんなにすばらしい音楽を
持っているかということを見せてやろう、ってことで
町人を相手に1ステージやってみせた。
目新しいもの大好きなここの国民は釘付けになったそう。

で、ステージが終わると、四重奏、
「アンコールをやってやろう。どの曲が一番良かったか?」
と問えば、聴衆は満場一致で「1曲目」。
「よーしそうか、では一曲目をやろう」
ということで一曲目にやった曲を演奏する。
すると、聴衆
「ちがうちがう、その曲ではない。その前の曲だ。」

その前といえば、
そう調弦。
チューニングを曲として聞いていた、というはなし。

たしかに擦弦楽器のチューニングは、ちょっとずつズレているのが
呼吸しながらだんだんに一つになっていく、というドラマがある。
楽器がよく鳴っていたりしたら、これは、ぞわりとくるものがあるものだ。

又聞きなのでどこまで本当なのか分からないけれども、
いい話だよなぁと、つくづく思うのだ。
文化の違いはあった方が、世の中面白い。